ペガサス走友会ワシントン便り No.3

新たな誓い、2002年秋

 

自称「ペガサス走友会ワシントン支局長」の浩司パパは、口で言うわりにはあまりきちんとジョギングをやっていない。「ワシントン便り」も2001年の年末年始にかけてはそれなりに書いていたが、課題だった冬場のトレーニングについて方法を確立させることができず、結局春のマラソンシーズンを棒に振っtた。その結果は若干の体重増。任期延長の前提条件として受けた健康診断でも体重増をホームドクターから指摘され、2003年春頃にもう一度健康診断を受けるよう警告を受けた。

このままではまずいということは百も承知だが、1991年に7キロ近い減量に成功した最大の要因は、実は減量を目的とするのではなく、マラソンに向けた走力アップを目標にしたことだと思っている。私が初めて走ったハーフマラソンは1時間56分(サンスポ千葉マリンマラソン、92年1月)かかったが、1時間36分(熊谷さくらマラソン、94年2月)まで記録を短縮したし、10kmの記録は、47分台(足利尊氏公マラソン、92年5月)から41分台(庄和大凧マラソン、94年5月)に縮めた。初めて走ったフルマラソンは4時間56分(ホノルル、92年12月)かかったが、94年に3時間43分台(佐倉健康マラソン、94年3月)という好記録を出した。さらに、ゆっくり長く走る力を付ける目標を定めて走り込みを続けた結果、95年には120kmの夜叉ヶ池伝説マラニックの完走も果たした。そうした努力の結果、減量はそれに付随して達成されたのだ。

だから、減量せよと言われてはいそうですかと減量を目指すのは非常に難しいと思っている。何よりも、私のもう1つの趣味である「ビール探究の旅」との両立ができない。ひと汗かいてから飲むビールは最高だ。減量とビールは両立が難しいが、ランニングとビールと減量はある程度は両立するのである。従って、私はランニングで目標を設定して、それに向かって努力してゆくことにしたい。

そう考えて、2002年秋は、意を決してランニングを再開した。11月下旬の10kmレースは祖母の急逝により出られなかったけれど、10月末のアーリントンYMCA主催の5kmレース"Trick or Trot"、12月にはレストンランナーズ主催の5マイルレース"Fall to Winter"に出場した。"Trick or Trot"など、なんと3年連続で出場する珍記録まで作ってしまった。但し、3年間の記録は徐々に悪化している。今年の大会は、事前のジョギングと剣道とで肉離れを悪化させて、後半は足を引きずりながら歩くことになってしまった。"Fall to Winter"も、最初の5kmはきちんと走ったが、それ以降は上り坂ではきつくて歩くしかなかった。

走力は去年よりも落ちているけれど、ここまでは去年とほぼ同じスケジュールで来た。問題は、ここから先である。去年は厳寒の1月2月の練習方法を確立できなかった。しかし、今年は違う。走る時間と場所を変えたのである。辺りが暗くて寒さも厳しい早朝や、妻と子供の白い目を後目に危険な夜のランニングはどうしても難しいので、日中、オフィスの近辺でのランニングを始めたのである。世銀のHビル地下1階にはスポーツジムがあって、更衣室やシャワーが完備されている。これを使わない手はない。晴れていれば、近くのリンカーン記念堂とワシントンモニュメントの辺りを1周半走れば大体5kmだし、曇りや雨の日とか、仕事の切りが悪くて外が暗くなってしまった場合は、ジム内のトレッドミルで1時間走り続けるのだ。

それでは、目下の私の目標は何かというと、はっきりと3月23日の第2回ワシントンDCマラソンであると申し上げよう。1月から2月中旬までは完全にオフシーズンであるが、それ以降は、「George Washington Birthday Classic 10km」(アレキサンドリア)、「Colonial Half Marathon」(ウィリアムズバーグ)と徐々に距離を伸ばしてゆく計画である。これだけの急仕上げでフルをノンストップで走れるようになるとは思わないが、咲きかけの桜をめでる余裕くらいは持って走れるようにはなるだろう。

97年夏、樹生が生まれて間も無い頃、子育て専念の休暇一時期国をした際、トレッドミル30分だけの練習を1ヶ月半続けて、大菩薩峠登山競争で23kmを走ったことがある。当時とは走力が違うので、この練習を今続けてどこまで走力を復活させることができるのかは疑問だが、不様な結果にはならないよう、努力はしたいと思う。1月はサンパウロ滞在が10日間ほどあるが、残りの半月で、せめて130kmは走っておきたいと考えている。それが2003年の新年の誓いである。