【開発経済特論最終レポート】

開発経済のテキストと討論から学んだこと・考えたこと,今後の課題としたいこと

テキスト:毛利良一「グローバリゼーションとIMF・世界銀行」大月書店、2001年

 

 

1.テキストと討論から学んだこと

 

レポートを書き出すにあたり、先ず本テキストの冒頭「プロローグ」に立ち戻り、著者の定義する「グローバリゼーション」を振り返ってみたい。それは、「モノ、ヒト、サービスにかかわる活動が、各国の規制緩和・撤廃により自由化され、地球規模で、市場原理にのっとって利潤の最大化を追求する資本の運動」(P.1)であるとする。そして、現に我々が向き合っているグローバリゼーションを、「アメリカの覇権、アメリカの力による世界秩序維持体制の再編成としてとらえることが重要である」(P.4)と述べ、アメリカの影響力が大きいIMF、世界銀行、WTO等の国際機関がその尖兵を担っていると著者は指摘している。本テキストにおいて著者がとりわけ金融グローバリゼーションに重点を置くのは、カネが地球を駆け巡るスピードはモノやヒトの移動に比べてはるかに速く、また経済社会全体に及ぼす影響力が時として破壊的なまでに凄まじいからである。グローバリゼーションは、開発途上国や市場経済移行国の経済発展を促進する大きなインパクトを与える反面、その経済社会を根こそぎ揺るがす破壊力を持つとともに、地球規模で移動する資本にとって魅力の乏しい地域にはその恩恵を与えず、国際的な所得格差を拡大し、社会病理現象の蔓延を招く恐れがある。

 

本テキストにおいて、著者は、グローバリゼーションを「アングロ・アメリカ型=市場原理主義経済による世界の席捲」(P.4)ととらえ、「一握りの勝者と圧倒的多数の敗者への世界の分裂」(同)という結果を招いていると指摘している。確かに、金融グローバル化に焦点を当てた場合、アメリカ標準の世界化という「アメリカの一人勝ち」的状況が生じているのは紛れもない事実であり、スティグリッツ(2002)でも指摘されているように、各国のマクロ経済の安定化と国際資本移動の自由化を目指すIMFにおいて、アメリカは唯一拒否権行使が可能な国として君臨し[1]、アメリカに不利な意思決定が行なわれないよう注視し、IMFを牛耳っているとの見方がある。これは、出資比率が投票パワーと結びついている国際金融機関に関してしばしば指摘される点である。スティグリッツ(2002)はさらに進んで、IMF・世銀の政策決定は、ウォール街の金融エリートが、アメリカ政府のとりわけ財務省と密接な繋がりを以って介入を行なってきた結果であると主張する。これは、バグワッティの「財務省=ウォール街複合体」とも共通する。

 

2月、CIVICUS(市民参加のための世界連盟)の事務局長であるKumi Naidoが世銀において講演を行なった。彼は、グローバリゼーションに関して、「自分達の身に降りかかってくる重大なインパクトを持つ意思決定が、自分の関知しないところで行なわれていること」に強い懸念を表明し、世銀の理事会のような世銀の政策決定の場における開発途上国の「under-representation」は今こそ是正されねばならないと主張した(Naido、2003)。本テキストのエピローグにおいて、著者がIMF・世銀を風通しのよい民主的な機関に変革する方策の1つとして、アジア諸国の発言権は引き上げられて然るべきとの主張を行なっているが、その根底にある「経済力に見合った出資比率と投票権比率」(P.361)よりもさらに進み、Naido(2003)は、その意思決定によって影響を被る度合いの濃淡により、発言権の配分が行なわれるべきであると示唆するものである。アメリカが実質的な拒否権を持つ現在のIMFの意思決定メカニズムの是正の必要性については、スティグリッツ(2002)も本テキストと同様の指摘を行なっている。

 

また、小浜(2002)は、WTOの貿易交渉を取り上げ、途上国のプレゼンスについて、WTOでは国連同様に小国の立場に配慮しているものの、実際にはジュネーブに政府代表を送り込むことすらできない途上国もあり、途上国に不利なシステムであると指摘している。そして、WTO協定の実施能力改善のためのキャパシティビルディング以前に、財政的理由からジュネーブに代表を常駐させることが出来ない途上国に対しては、とくに新ラウンドの交渉中に限っても、常駐代表を置くことへの資金の支援を考えるべきだと主張している。

 

 

2.テキストと討論を終えて考えたこと

 

さて、このように、アメリカの一人勝ち的状況への懸念、及びアメリカ政府の強い影響下にある国際機関の意思決定システムの是正の必要性については、多くの論者が同様の指摘を行なっているわけであるが、その一方で、次の二点について疑問が生じる。第一に、アメリカの一人勝ちといわれる状況の中で、アメリカ国内で「勝ち組」に入り、かつそのような状況の継続を望んでいるのは誰か。逆に、アメリカ国内で一人勝ちの恩恵を受けておらず、そのような状況継続の抑止力になるのは誰か。第二に、本当にアメリカだけが常に一人勝ちしているのか、言い換えれば、その圧倒的な政治力を行使してグローバリゼーションを自国に有利な方向に誘導しているとの非は、本当にアメリカだけに向けられるべきものなのか。

 

第一に、アメリカの一人勝ちといっても、アメリカ国民一人一人がその恩恵にあずかっているわけではない。スティグリッツ(2002)は、グローバリゼーションを、「世界政府のない世界統括」と形容している。そこでは、少数の機関(世銀、IMF、WTO)と少数の人間(特定の商業的、金融的利害と密接に結びついた金融や通商や貿易の担当者)が全体を支配して、その決定に影響される多くの人々は殆ど発言権のないまま取り残されている(pp.43‐44)。しかも、ここでいう「影響される人々」は、決して途上国の国民だけを指すのではなく、アメリカ国民も含まれる。資本取引よりも貿易取引の方が説明しやすいので最初に貿易について考えてみよう。

 

ドーハで採択されたWTOの開発アジェンダを先進国が実行し、輸入障壁の撤廃に同意すれば、途上国に膨大な利益をもたらすことが指摘されている。また、先進国の農業補助金も大幅削減が行なわれなければならない。こうした補助金は、途上国の貧困層に打撃を与えるだけでなく、先進国の国民にとっても税金と国内消費価格の増大を意味するものである(World Bank、2001)。一般的に、輸入障壁も輸出補助金も、国内の生産者を保護するために設けられるもので、消費者の効用には繋がらない。むしろ犠牲となっている。政府は、このような所得補償を、第一次産業と一部の衰退産業といわれる第二次産業の従事者にだけ大々的に行なっていながら、他の産業の従事者にはほとんど行なっていない。こうした特定産業に対する特別な措置が生む超過費用は、国民一人一人の税負担により捻出されている(土居、2002)。

 

国際資本取引が自由に行なわれることは、投資家の視点から見れば、世界的規模でのリスクの分散化と高利回りのポートフォリオ構築に役立つので、そのような機会に、投資信託のような間接的な方法ででも関与できるアメリカの投資家は、一般的には利益を得てきたと言える。また、ウォール街の金融機関は、組織としてもまた個々のファンドマネージャーレベルにおいても、多くの投資家から集めた資金を安全かつ高利回りで運用することで評価されるため、IMF・世銀が「ワシントン・コンセンサス」に則って進めてきた途上国の資本取引の自由化、特に急進的な自由化を支持していた。しかし、1997〜98年にアジアを起点に始まった世界的経済危機の影響でLTCMが経営破綻を来たした時、アメリカ政府が行なった公的資金投入は、国民に広く浅い負担を強いた上で、LTCMに資金預託していた投資家を救済した形になったし、それ以前に、誤った政策支援パッケージを途上国政府に飲ませたことによって、結果的に緊急資金注入の規模を大きくしてしまったIMFに対するアメリカ政府の費用負担は当然大きく、これもいずれアメリカ国民に広く浅い負担を強いることになった。

 

このように、特定の業界やグループを保護するために、保護に係る費用の負担を、国民全体に広く浅く負わせる手法は、「自国の利益」という名の下に、一部の「声の大きい人たち」(小浜、2002)の利益を考慮しているに過ぎない。このように、一部の業界にてこ入れすることが国全体の厚生の最大化には必ずしも繋がらないにも関わらず、このような手法が政治の場でまかり通っているのは、国民一人一人が負わされている費用について、適切な情報が提示されていないからだと思う。

 

第二に、このような手法はアメリカだけに見られるわけではない。本テキストは冒頭に述べた背景から金融グローバリゼーションに焦点を絞っているのでアメリカの一人勝ち的記述が展開されているが、ことをモノの動きのグローバル化の議論に移した場合、アメリカで行なわれている国内産業の保護と結びついた貿易政策は、日本でも欧州諸国でも日常茶飯事的に行われていることである。欧州では、農業補助金は各国の財政に大きな負担を強いる現状がありながら、補助金削減への道筋がなかなか開けないでいる。アメリカが農業補助金を削減しないから自分達も削減しないという論法は、「モノの動きのグローバル化におけるアメリカ標準」の導入と言えないこともないが、こと貿易に関しては、一方で途上国に貿易自由化を押し付けながら他方で自国の生産者保護を継続する先進国はいずれも罪が大きいと思う。

 

2001年、日本では、中国からのネギ、シイタケ、畳表輸入に対するセーフガード発動が問題になった。日本の農林水産業の付加価値がGDPに占めるシェアは1.5%に過ぎない。にも関わらず、ネギ、シイタケなどの国内生産者を保護する便益が、高いネギ、シイタケを買わされる消費者の費用を上回ると判断されたからこそ発動されたセーフガード措置であろうが、1年間のセーフガード発動で、保護を受けた国内生産者は、生産改善努力を実行し、生産コストの大幅削減を実現して、セーフガードの本来の目的である中国からの輸入急増に対抗できる強靭な体力を付けることができたであろうか。

 

現在WTO農業交渉の場で日本にとって最も大きな争点となっているのは、コメの関税引き下げであるが、2月に行なわれた東京会合における日本政府代表の発言を見る限り、「我が国にはとうてい受け容れられる内容ではない」との発言に終始している。この場合の「我が国」とは、声の大きいコメ生産者団体のことは指しても、日本の消費者のことは指していない。生産者団体が自分の利害に基いて発言するのはよいとしても、国内コメ生産の保護のために、多様な種類のコメを低価格で享受できない日本の消費者は、自分達が失っている厚生について、適切な情報を提示されているのだろうか。

 

 

3.今後の課題としたいこと

 

ここまで書いた上、論点を整理してみると、情報公開と市民による政策決定プロセスへの参加は、何も途上国のPRSP/CDFプロセスに関してのみ必要不可欠というわけではないことがわかる。消費者、納税者としての先進国国民が、一部の「声が大きい人々」と彼らが影響力を行使できる時の政策立案担当者との間で展開される政策が、世界中の貧困者にいかなるインパクトをもたらすのか、そして、その政策導入によって自国の国民が負担することになるコストがどの程度の規模なのか、十分な情報をもとに適切な判断を下してゆける環境を作ることが必要である。そのためには、次のような課題が考えられる。

 

@グローバリゼーションの進展によってネガティブな影響を受ける、或はグローバリゼーションの恩恵から取り残される途上国の貧困者の声を、先進国国民が聞けるような環境をどう作るか。

 

A先進国国民が自国政府の政策の便益とリスクに関する十分な情報提供を受けて、適切な判断を下すことができるような、市民社会と政府との関係をいかに構築するか。

 

B自国政府の政策のみならず、他国(特にアメリカ)の国民が当該国政府の立案した政策に関して、上記Aと同様な判断を下すことができるようにするために、市民社会間の連帯をいかに構築するか。

 

 私は、テキスト第7章・エピローグに関するレポートの中で、国境を越えた市民のネットワークが、「アメリカ標準」の世界化に対抗する軸となるのではないかと述べた。これは、NGOを中心として既に多くの取り組みが行なわれているので多言を要しない。では、自分が個人として何ができるか[2]を問われた場合、第一に、ODA実務者としての事業広報、第二にメーリングリストといった場での積極的な情報・意見の発信を挙げたい。メーリングリストについては、同業者や関心領域の近い方の間だけではなく、老若男女を問わず、広く意見の発信が必要と考える。グローバリゼーションの進展が自分達の日常生活とどのように関わっているかについて、日本の国民一人一人のレベルではあまり強く認識共有が行なわれていない。そして、認識共有が少ないために容認されてきた政府の意思決定が、結果的に途上国の貧困者にもたらす影響についても、あまり理解されていないのが実情ではないかと思う。このような悪循環を断ち切らないと、市民のネットワークが「アメリカ標準」の世界化に対抗する軸として成長してゆくことは難しい。

 

最後に、時の政策立案者が進めている危険な政策決定も、その「結果(consequences)」について、一般国民が関心を持って適切な判断を行ない、それに基づいて行動すれば、政府に対して大きな抑止力になるということを、2月15日に世界各地で行なわれた対イラク攻撃反対運動は改めて示したように思う。十分な情報開示を国民に対して行なわず、国民をリスクにさらす政策を進めようとするアメリカ政府や、農業保護の「結果」について国民に適切な情報提供をせず、WTO交渉の場で「保護削減反対」を連呼する日本政府代表団を見ていて、参加型政策決定プロセスが実践されていないのは何も途上国だけの問題ではないと痛感させられる。

 

金融グローバル化という、テキストの本流からは少し脱線した議論を展開になってしまったことをお許し願いたい。

 

2003年2月24日)

 

参考文献

Naido, Kumi (2003), “Civil Society, Governance and Globalisation,” World Bank Presidential Fellows Lecture, February 10, 2003, at the World Bank headquarters in Washington, DC

 

Roth, Kenneth (2003), “Perspectives: Head of Human Rights Watch urges Bank to adopt rights-based approach to development.”

 

World Bank (2001), “Globalization, Growth, and Poverty: Building an Inclusive World Economy,” A World Bank Policy Research Report, December 2001

 

ギデンス、アンソニー(1998)「第三の道」佐和隆光訳、日本経済新聞社、1999年10月

 

朽木昭文(2002)「9.11同時多発テロ後の援助政策の大変化」『DC開発フォーラム』特別寄稿、2002年11月

 

小浜裕久(2002)「WTOと日本の進路−グローバリゼーションとどう向かい合うのか」『世界経済評論』2002年4月

 

スティグリッツ、ジョセフ・E(2002)「世界を不幸にしたグローバリズムの正体」鈴木主税訳、徳間書店、2002年5月

 

土居丈朗(2002)「入門公共経済学」日本評論社、2002年11月

 

ドラッカー、ピーター・F(2002)「ネクスト・ソサエティ」上田惇生訳、ダイヤモンド社、2002年5月

 

 



[1] スティグリッツ(2002)は、批判の目をIMFに集中させるため、世銀がIMFと同罪と思われる箇所について、巧妙に世銀への言及を避けているが、アメリカが世銀の意思決定に事実上の拒否権を持っていることも事実である。出資比率で見た場合に加盟国の80%以上の批准が必要なIDA増資は、アメリカ1カ国の批准が遅れて発効が遅れるケースが多いし、融資案件もアメリカ理事が反対した場合には理事会承認が難しいとよく聞く。そして何よりも、世銀の総裁自体がアメリカ政府の任命による。アジア経済研究所から世銀開発経済局(DEC)に2002年3月まで在勤された朽木昭文氏は、世銀の開発戦略の決定要因として、第一にアメリカ政府の意向、第二に世銀総裁の考え方、を挙げているが、アメリカ大統領が世銀の総裁を決めるため、アメリカ政府の意向を無視する世銀の総裁は存在しない、世銀の総裁が世銀職員の人事権を持つため、世銀総裁の意見が世銀の開発戦略を左右する、とする。毛利テキストでは、本来IMFとの役割分担の関係上、世銀がIMFと異なる施策をとって貧困削減の視点からIMFとは異なる開発戦略の展開を期待するが、スティグリッツ(2002)は逆に、IMFの同意なくして世銀単独の融資実施は困難であるとして、世銀も事実上IMFの支配下にあると主張している。

 

[2] 筆者の職域の範囲内で、日本の援助機関の一職員として、現地のPRSPやCDFのプロセスにいかに関わって行くか、についても考えるところはあるが、本レポートの範囲を超えるため、ここでは詳述しない。