バーボン・ウイスキーの源流を訪ねて

〜ペンシルベニア州シェーファーズタウン訪問

 

1980年代後半の学生生活の中で、ボクにとってバーボン・ウイスキーは憧れの酒であった。今となってはお笑いであるが、ボクの学生時代は、1988年ソウル五輪が直前になって北朝鮮のテロ攻撃によって中止に追い込まれるという、見事に外れてしまった予言で世間の苦笑を浴びた落合信彦氏の著作にはまっていた時期である。ボクに落合氏の著作を薦めてくれたクラスメートのT君は、父親がオイル・ビジネス出身という落合氏と同じ背景を持っていて、T君は父親に反発しつつも結局石油業界に就職した。そんなT君が初めてのアメリカ旅行のお土産として買って来てくれたのが「ワイルド・ターキー」だった。ノンフィクションに飽き足らず遂に長編小説まで書き始めた「男の中の男」落合氏が、主人公に必ず飲ませるバーボンが「ワイルド・ターキー」なのだ。ボクの大学時代の最高の親友だったT君は、2000年11月に交通事故で還らぬ人になった。ボクはようやく一時帰国の機会を得た2001年末にT君の大泉の実家にスキットル瓶入りの「ワイルド・ターキー」を持って行って2人で飲もうと考えたが、大泉のご実家は既に引っ越された後で、その後のご両親の足取りがつかめず、結局この夢は実現していない。

 

もう1つ、ボクをバーボンに向かわせた本がある。熊手篤男著「オンリー・ロンリー・バーボン」(筑摩書房)である。熊手さんは東京近辺でバーボン・バーを展開する「ボイルストン」のオーナーである。ボクが実際に訪問したことがあるのは渋谷店と池袋店と新宿西口店である。最もバーらしい雰囲気なのは渋谷店で、ボクは先述のT君と2人で時々出かけた。池袋店でもT君やK君と飲んで、「ぼくは女は嫌いだ」と言い張るT君と激論を戦わせた。新宿西口店は、ボクの再就職先のオフィスから非常に近くて、よく宴会で使わせていただいた。ボクと妻の結婚式の3次会はここでやらせていただいた。どこのお店でもルイジアナのケイジャン料理「ジャンバラヤ」がメニューに入っていて、それに惹かれて通った部分もないとは言えない。熊手さんの著作の中でよく出てきたのが「オールド・フォレスター」と「エンシェント・エイジ」というブランドで、「ワイルド・ターキー」は高価でなかなか手が出なかった当時、この2本は下宿先に買い込んで1人でグラスを傾けていた。そして、ケンタッキー・ダービーの観客が好んで飲むバーボン・ベースのカクテル「ミント・ジュレップ」も、この本の中で初めて知った。ボクは最初の就職先での勤務地が名古屋だったので、「ボイルストン」の名古屋店もよく使わせていただいた。ここではアメリカで最も飲まれている「ジム・ビーム」のボトル・キープをしていた。

 

ボクの学生時代にその他の場所で飲んだバーボンとしては、上智大学からほど近い「しんみち通り」にあった「仏蘭西かぼちゃ」で出された「アーリー・タイムス」がある。勿論、当時の「仏蘭西かぼちゃ」でボクたちがよく注文していたのは「ロバート・ブラウン」で、バーボンはちょっと違っていたように思う。社会人になってからよくお世話になっていたのは「フォア・ローゼズ」と「I・W・ハーパー」である。特に、ネパールに在勤していた頃は、バンコクの免税店で買ってきたこれらのバーボンを、妻と2人でよく飲んでいた。2人でバーボンのグラスを傾けながら、その日1日を振り返るというのがボクの憧れだった。

 

さて、これまでに出てきた7種類のバーボン・ウイスキーは、日本でも非常にメジャーな部類に入る銘柄だ。いずれも、ケンタッキー州で生産されている。バーボン・ウイスキーはアメリカ連邦アルコール法によると、主原料のとうもろこしが全体の51%以上、80%未満含まねばならないことや、蒸留は160プルーフ以下で行なうこと等、厳しい規定があるが、生産地の規定はない[i]。でも、通常、「バーボン」という名はケンタッキー産で連邦アルコール法の規定を満たしたウイスキーだけが冠することができる[ii]

 

ところで、ケンタッキー州がアメリカ合衆国の州として認められたのは1792年のことであるが、バーボン・ウイスキーの生産はいつ頃から行なわれていたのだろうか。手元の資料によると、バーボン・ウイスキーの製法でエライジャ・クレイグ牧師が初めて製造に成功したのは1789年のバージニア州レバノン(現在のケンタッキー州ロイヤル・スプリングス)[iii]、そして、ケンタッキー州バーボン郡でジェイコブ・ビーム社が蒸留所を開業したのは1795年とある。即ち、正真正銘の「バーボン」は、1795年以降に生まれたが、その蒸留法はそれ以前に既に考案されていたことになる。そもそも、ケンタッキーが州になる前のウイスキー生産はどこで行なわれていたのだろうか。当然のことながら、今のケンタッキー州よりも東にあったに違いない。

 

さらに歴史を調べると、アメリカ独立戦争の後遺症で起こったインフレ対策として、時の大統領ジョージ・ワシントンと初代財務長官アレキサンダー・ハミルトンは、1791年に蒸留酒に対する物品税を導入したこと、1794年には、ウイスキーに課された重税を嫌ったペンシルベニアの農民が税徴収所を襲撃する事件(大ウイスキー暴動)が起きたとある。当時、ペンシルベニアには5000人もの蒸留業者がいたらしい。結局、この暴動は15000人の政府軍によって鎮圧されるが、課税による減収を嫌ったペンシルベニアの蒸留業者の一部が、税金がかからないという噂のケンタッキーに移住したのである。結局、そのケンタッキーの免税措置は噂でしかなかったわけだが、同州の気候風土、特に石灰岩の岩盤から湧き出るライムストーン・ウォーターと呼ばれる上質の水が豊富にあったことが、クレイグ牧師が考案したバーボンの蒸留と熟成法によりマッチしており、ケンタッキーのウイスキー生産が一気に拡大していったのである[iv]

 

それでは残されたペンシルベニアの蒸留業者はどうなったのだろうか。1988年に出版された徳間書店のタウン・ムック「ザ・バーボン」によると、現存するペンシルベニア蒸留業者は1社だけになっているという。それが、シェーファーズタウンにある「ミッチャーズ(Michter’s)」である。

 

この蒸留所の創業は1753年。バーボンが生まれるよりもずっと早くから、ウイスキー生産が行なわれていた。創業者はジョン・シェンクという南西ドイツからの移民の子孫である。そして、1860年にジョンの曾孫エリザベス・シェンク・クラッツァーからエイブラハム・ボンバーガーに所有権が移るとともに、本格的蒸留所として「ボンバーガー・ウイスキー」という商標で広く知られるようになった。

 

1919年の禁酒法制定とともに、「ボンバーガー・ウイスキー」はいったん閉鎖に追い込まれるが、1933年の禁酒法撤回とともにペンコ蒸留所が同プラントを買収、さらに1978年にはミッチャーズ社に買収され、1980年代を迎えたという。そのレシピはボンバーガー時代から変わらず、ライ麦40%、とうもろこし40%、大麦モルト20%で、バーボンと同じサワー・マッシュ製法を用いながらも、厳密に言うとバーボンでもライ・ウイスキーでもない特徴的なものであったという。80年代後半にボクたちを巻き込んだ日本のバーボン・ウイスキー・ブームに乗って、ミッチャーズのウイスキー(便宜上はライ・ウイスキーと名付けられている)も日本に紹介された。曰く、「アメリカ最古の蒸留酒」として。

 

だから、ボクのアメリカ赴任が決まった時、一度はシェーファーズタウンに行ってみたいものだと思っていた。赴任から2年以上が経過した2003年4月、ようやくシェーファーズタウンを訪問する機会を得た。ニューヨーク、ワシントンDCのいずれからも車で約2時間30分の距離で、ペンシルベニア州の州都ハリスバーグから少し東、アーミッシュで有名なランカスターからは真北の方角だ。

 

しかし、事前に幾つかのウェブサイトを調べてみると、ジャグ・ハウスは現在も営業中だとするものから、否1989年にミッチャーズ社が連邦会社更生法第11条適用を申請して再建に努めたが、結局1991年に清算が行なわれて現在は閉鎖されているとするものまで、情報が錯綜していて実際のところはどうなのかが全くわからなかった。取り合えず他に立ち寄るところもあったので、とにかく行ってみることにした。

 

ニューヨークから同地に向かったものの、シェーファーズタウンの町に入っても、「ミッチャーズ」という看板はどこにも見当たらない。小さな町なので見落としようがないだろうとたかをくくっていたが、どこにあるのかさっぱりわからない。中心街を西に抜けて町の境界線を越えた後、念のためにもう一度だけ引き返してみようと車をUターンさせて暫く走ったところで、遂に「Distillery Rd.(蒸留所通り)」という道を発見、この通りを南に下ってみることにした。

 

そしてようやく蒸留所のプラントを発見したのであるが、車を近付けるにつれ、このプラントは現在は全く使われていないことがわかってきた。窓の多くは割れており、近くにあった別のプラントは屋根が落ちていて火事で焼けた跡が残っていた。「MICHTER’S」と書かれた看板は剥げて文字の識別が難しくなっており、蒸留所の屋根に置かれていた白地のジャグ(低温で焼いた取っ手付きの陶磁器製ウイスキー容器)は、錆びて赤茶けて何が何だかわからない状態だった。周囲には事情を聞ける民家もなく、車の通りも全くない。まるで、ゴーストタウンといった風情で、夜になったらそれこそ何かが出るような怖さがあるだろうと思った。一刻も早く立ち去りたい気分だった。

 

結局、「ザ・バーボン」1988年版が日本で出版になった直後、このペンシルベニア唯一の蒸留所、アメリカ最古の蒸留所は、230年余りにわたるその歴史の幕を閉じていたのである。ボンバーガー家の子孫であるイボンヌ・ボンバーガー・ファウラーによれば、蒸留所は現在フィラデルフィアの投資家グループが購入し、観光目的の蒸留所再開に向けて準備中ということである。近くにはチョコレートで有名な企業城下町ハーシーや、アーミッシュで有名なランカスターがあり、確かに観光インフラとしてはかなり充実した土地であることには違いない。何年かしてもう一度この地を訪れたら、昔のようなウイスキーがまた生産されているかもしれない。しかし、閉鎖から既に10年以上が経過しており、サワー・マッシュ製法といった職人的テイスターを再び育てるのは至難の業ではないだろうか。アメリカでは、ウイスキーはワインに押されていて、消費量が今後格段に伸びるとも思えない。再開への道は容易ではない。

 

(2003年4月22日)

 

参考ウェブサイト

l        Michter’s Distillery: Research by Ms. Uhrich

l        Michter’s: America’s Oldest Operating Distillery

l        Yvonne Bomberger Fowler’s Home Page

 

 



[i] バーボン・ウイスキーの定義は次の通り。@主原料はとうもろこし。全体の51%以上80%未満を含まなければならない。A蒸留は160プルーフ以下で行なう。B新品で内側が黒焦げにされたホワイト・オーク材の樽の中で、少なくとも2年間熟成すること(殆ど全てのバーボンが4年以上熟成されている)。C標準強度80プルーフ以上で瓶詰めにする。D熟成4年以下の酒をブレンドする場合には、最も新しいものの熟成期間を表示。E熟成、貯蔵は125プルーフ以下で行なうこと。もし、とうもろこしが80%以上含まれていると、それはコーン・ウイスキーと呼ばれるし、とうもろこしではなくライ麦が51%以上使われているとライ・ウイスキーと呼ばれる。コーン・ウイスキーの定義は、@原料はとうもろこしを80%以上含んでいること、A内側に焦げ目のない新しい樽か、または使用済みの内側が黒焦げにされた樽で熟成させること(新品の焦げ目をつけた樽を使ってはいけない)、B蒸留は160プルーフ以下で行なうこと、C熟成、貯蔵は125プルーフ以下で行なうこと、となっている。ライ・ウイスキーは、@原料のライ麦を51%以上含んでいること、A蒸留は160プルーフ以下で行なうこと、B内側を黒焦げにした新品のホワイト・オークの樽、125プルーフ以下で熟成、貯蔵すること、などが規定されている。日本ではアルコール濃度を示す単位に%または度を使う。容量を100としてアルコールの容量率で表す方法である。アメリカでは、これを「プルーフ」という単位を使って表す。容量を200とし、容量率で純粋アルコール分を50%含むものを標準プルーフとして100と定めている。日本の度数への換算は、単純にプルーフを2で割ればよい。即ち、80プルーフのウイスキーと言った場合、日本では40度ということになる。(徳間書店タウン・ムック「ザ・バーボン Part 2」1988年)

 

[ii] 日本では「ジャック・ダニエルズ」のことをバーボン・ウイスキーだと思っておられる方が多い。連邦アルコール法の規定上はこの表現は正しい。しかし、「ジャック・ダニエルズ」のラベルを見ると、「テネシー・ウイスキー」と表示されている。それと、テネシー・ウイスキーには連邦アルコール法上規定されていない独特の製法がその工程に組み込まれている。蒸留後、先ず原酒をテネシー産サトウカエデの木炭で濾過するのである。(徳間書店タウン・ムック「ザ・バーボン Part 2」1988年)

 

[iii] 牧師稼業のかたわら、ウイスキー造りに精を出していたエライジャ・クレイグ牧師は、一度使った樫の酒樽を蒔の燃えさしを使って消毒し、再利用した。焦げた樽にウイスキーを入れて3年余りを経たある日、樽を開けるとウイスキーが赤く染まってとても美味しくなっていたという。(徳間書店タウン・ムック「ザ・バーボン Part 2」1988年)

 

[iv] もっとも、それまで蒸留が行なわれてきた地域と比べて、ケンタッキーはライ麦が不足しがちだったため、とうもろこしが主体となった現在のバーボン・ウイスキーが生まれてきたという経緯もある。