建国史の舞台を訪ねて

バージニア州シャーロッツビル

 

 

始めに

 

アメリカ建国史を今更ここで詳細に書いても仕方がないのが、シャーロッツビルは、アメリカ第3代大統領トーマス・ジェファーソンの出身地であり、大統領退任後83歳で亡くなるまで余生を過ごした場所でもある。シャーロッツビルは、ジェファーソンが設立したバージニア大学のメイン・キャンパスが立地する文教都市である。ワシントンからは、ワレントン、カルペパー経由で約2時間半で行くことができる。

 

シャーロッツビルの紅葉は一見の価値ありと多くの人が薦める。その言葉につられてぼくたちがシェナンドア渓谷とシャーロッツビルに出かけたのは2002年10月下旬のことだった。残念ながら紅葉はまだ随分先という印象だったし、2日目のシャーロッツビルでの天候が良くなかったので、良い写真があまりない。また、運転していたミニバンの右前輪に異常を来たしていて、暢気にドライブ旅行を楽しんでいるゆとりがなかったのも事実だ。だから、日本から来客があったら、また、モンティチェロとアッシュローン・ハイランド観光にミッチー・タバーンでの昼食を付けて、ご案内がてらでかけてみたいと思っている。

 

 

トーマス・ジェファーソン

 

 ここでは先ず、トーマス・ジェファーソンについて簡単に紹介しよう。引用は旅名人ブックス「米国・バージニア州〜建国史の舞台を歩く」(日経BP)である。

 

 ジェファーソンは、シャーロッツビルに近いシャドウェルに、大農園主の長男として生まれる。母は貴族階級の出身という恵まれた家計で、ジェファーソンは若くして双方の家系から200人の奴隷を含めた膨大な遺産を引き継いだ。そして、ウイリアムズバーグにあるウイリアム&メアリー・カレッジを卒業して弁護士になる。

 

 ジェファーソンは、学生時代、1日15時間も机に向かったという驚異的な勉強家だった。しかも専門の法律のことばかりでなく、農業から動植物、文学、芸術、語学と対象は森羅万象に及んだ。単なる法律家になるためのがり勉家ではなかったのだ。秀才にして好奇心旺盛、それに日課をきちんと決めて毎日着実にこなしていったというから、几帳面で相当精神力が強かったのだろう。

 

 やがて、重商主義を背景とした英国本国の暴政に対する植民地側の反発が強まると、植民地議会議員に立候補して、政界に踏み出す。公人としての生活は多忙を極め、独立戦争への中核となった植民地連合による大陸会議にはバージニア代表として参加して、独立宣言起草文の執筆を手がけた。起草委員の中では最年少だった。

 

 ジェファーソンは、参考文献にも頼らず、トーマス・ペインの「コモンセンス」など、それまでに自らの血肉としてきた古今東西のあらゆる思想、哲学、歴史観に基き、後の世の自由権論者から、古典的な自由憲章と称えられることになるアメリカ合衆国独立宣言の草案を書き上げた。最終的に承認された起草文は、奴隷解放に関する文言など僅かの修正を加えただけだった。「人は生まれながらにして固有の人権を有し、自由と平等の・・・」で始まる独立宣言が、全世界に向かって発信された。

 

 独立後、バージニアに戻ったジェファーソンは、パトリック・ヘンリー初代知事の後を継ぎ、二期にわたってバージニア州知事を務めた。やがて、7ヶ国語を自由にあやつるという語学の才能もかわれ、ベンジャミン・フランクリンの後任としてフランス大使に就任する。時はあたかもフランス革命への足音が一歩一歩近付きつつあった。

 

 任期半ば、今度はジョージ・ワシントン大統領に乞われて国務長官に就任する。そのご、中央集権論の連邦派に対し、中央より地方の権利を優先すべきだとする民主共和党(後の民主党)の初代党首に就任する。そして、第二代大統領ジョン・アダムスの副大統領を務めた後、次の選挙に勝って、第三代大統領としてアメリカ合衆国の基礎固めに奔走した。1803年にはフランスからミシシッピー以西のルイジアナを買収してアメリカ領土を一挙に倍増した後、1812年の英仏戦争では中立を維持し、独立間もないアメリカを戦乱から救った。

 

 大統領を二期務めた後、ジェファーソンは政界から引退し、念願のモンティチェロの戻って、83歳で亡くなるまで、自ら設計して折を見てはひとつひとつ自らの理想に向かって改築を繰り返してきた自宅の最後の仕上げに入る。また、晩年には「趣味」と称して後世の人材育成のためにバージニア大学を創設し、自ら校舎の設計と施工監督を務めるとともに、資金集めや、教授陣の選定、カリキュラム選定に至るまで、自身の理想を追求、投入した。バージニア大学講堂とモンティチェロは、世界遺産としても認定されており、ジェファーソンの建築家としての才能を示している。

 

 

モンティチェロ

 

 ジェファーソンが政界デビューを果たした頃、彼は故郷のモンティチェロの丘に、自らの設計による邸宅の建設を始めていた。マーサ夫人との間に6人の子供を設けたが、子供のうち成人したのはわずかに2人で、最愛の妻も結婚後10年で他界してしまう。しかし、ジェファーソンはその後もモンティチェロの改築を着々と進めていった。

 

 

 モンティチェロは小高い丘の上にあり、麓のチケット売り場からシャトルバスに乗って移動する。邸内の見学は時間制になっていて、バスを降りたところで整理券を受け取り、指定された時刻にツアーの出発位置に集まる。たいていは1時間以上先しか見学できないので、その間、邸宅の周辺にある農園(ジェファーソンは農学にも造詣が深い)や、ギフトショップで時間をつぶす。ここのギフトショップは品揃えが極めて充実している。ジェファーソンの生涯に関する書籍だけでなく、アメリカ独立宣言や合衆国憲法、建築様式の解説書など、彼の多才振りを反映して取扱い書籍のバラエティは極めて豊富だ。加えて、子供向けの書籍もある。子育てに悩む親としては、子供がジェファーソンのように育ってくれることが一つの理想である。ジェファーソンの伝記をついつい買って、子供に読み聞かせる、そんな親が何人もいることだろう。また、小高い丘の上ということは周辺の景色を一望できるわけで、特に紅葉の最盛期は見ものだろう。ぼくたちは残念ながら小雨の日に訪れたので、やや霧も出て見晴らしはあまり良くなかったけれど、ツアーの待ち時間が1時間以上あっても飽きることはないと思う。

 

 邸内も随所にジェファーソンの異才を垣間見る仕掛けがほどこされており、とても楽しい見学ツアーである。当時としては極めて珍しいスライド式扉とか、ダイニング・ルームに階下のワイン・セラーからワイン・ボトルを引き上げる仕組みとか、お手製の複写機(同じ文章を同時に2枚書ける)とか、数々の工夫がほどこされている。大邸宅というのは南部で幾つも見てきたけれど、このような細部の工夫にオーナー自身がここまで関与している邸宅というのはさすがに見たことがない。エントランス・ホールには当時の世界地図や動物の剥製が展示されている。面白かったのはアフリカ大陸の地図で、さすがに19世紀初頭というのは、アフリカ内陸部まで開拓が進んでおらず、まったくの空白地帯となっていたことがよくわかる。

 

 申し遅れたが、バージニアワインの始祖も実はジェファーソンである。彼はバージニアがブドウ栽培とワイン醸造に適していると信じ、1773年にイタリアからワイン職人を招いて自宅横にブドウ畑を作ったのが始まりとされる。この「ジェファーソン・ヴィンヤード」製ワインは、勿論ワイン工場でテイスティングを楽しみながら気に入ったワインを選んで持ち帰ることができるが、別途ワイン工場まで行っている時間のない人にとっては、モンティチェロのギフトショップでも入手可能であることが嬉しい。バージニアワインも何種類か飲んでみたけれど、ジェファーソンのワインはかなり美味しい部類に入る。

 

モンティチェロのウェブサイトはこちら

ジェファーソン・ヴィンヤードのウェブサイトはこちら

 

 

ミッチー・タバーン

 

 モンティチェロの丘から半マイルほど下ったところに、居酒屋「ミッチー・タバーン」がある。1784年建造のこの建物は、バージニアの建造物の中でもかなり古い部類に属する。元々はここから約27km北西の駅馬車の通り道にあった居酒屋兼宿屋で、モンティチェロの人気に注目した地元有志の手によって、この地に移設された。いわばモンティチェロ観光の昼食スポットであり、とても繁盛しているようである。

 

 その昔、この居酒屋兼宿屋には、常連客としてジェファーソンやマディソン、モンロー等、初期の歴代アメリカ大統領が若い頃訪れ、青雲の志を分かち合った。宿泊施設といっても、1つのベッドに見知らぬ客同士詰め合って寝るような状態だったらしい。ぼくたちの学生時代も安ウィスキーで友人の下宿で夜更けまで激論を交わしたことが何度もあるが(そのトピックは今振り返ると他愛のないことだったように思える)、アメリカの歴史を築いた若者たちの熱い議論も、きっとそんな雰囲気だったのだろう。

 

 現在、このレストランでは、昔ながらの南部料理をビュッフェ形式で賞味することができる。ランチは1人10ドル少々で、非常に素朴な味わいである。フライドチキンなどひときれのボリュームが大きく、ファーストフードのフライドチキンよりもからっと揚がっていてなかなか美味しいと思う。ロウソクの灯りを頼りに、コロニアルランチをいただいた後は、隣りのギフト・ショップを覗いてみる。ここも、モンティチェロと並び、お土産物はかなり充実している。

 

ミッチー・タバーンのウェブサイトはこちら