偶然のいたずらで歴史に名をとどめた土地

南北戦争激戦地「アンティータム」を訪ねて

メリーランド州シャープスバーグ

 

《「血塗られた小道」からダンカー教会方向を臨む》

 

 

なぜ今「アンティータム」か

 

1861年4月15日、南軍によるサムター砦砲撃で始まった南北戦争は、1864年4月9日にロバート・E・リー南軍将軍がバージニア州アポマトックス・コートハウスでユリシーズ・S・グラント北軍将軍と会見し、降伏文書に署名するまで、実に3年間にわたってアメリカ各地で激しい戦闘が繰り広げられた。今から140年前の出来事であり、南北戦争には多くの記録、逸話が残っている。ボクたちの近所の家を訪問すると、「自分の祖父の祖父はメイン州第○○連隊に参加していた」という話を聞いたりすることもある。

 

シャープスバーグの戦い(別名、「アンティータム」)は、1862年9月17日にメリーランド州ヘイガーズタウンの南方十数キロのところにあるシャープスバーグという小さな町の北東部で起きた。南北戦争全体で見ると、緒戦優勢だった南軍の勢いが止まり、劣勢に回った転換点は1863年7月のペンシルベニア州ゲティスバーグの戦いだと言われているが、その約1年前に起きたアンティータムの戦いの歴史的評価は、「北軍は確かに勝ったが、勝ち方が問題」ということになるだろう。南北戦争が4年間にもわたって繰り広げられる結果になった直接の原因は、北軍総司令官ジョージ・B・マクレランが南軍リー将軍を直接打ち破る機会をみすみす逃し、南軍に勢力回復の時間を与えてしまったことにある。勿論、リー将軍率いる南軍にとっても、アンティータム敗戦は国際政治上そして国内政治上も非常に高くついた。ジェファーソン・デービス大統領を頂き、独立を宣言していた南部連盟(Confederate)は、イギリス、フランスなどから独立国としての外交関係樹立の直前まできていたが、アンティータムにおける南軍敗戦によって、両国は南部連盟承認を思いとどまった。また、アンティータムで辛うじて勝利した北部連邦(Union)エイブラハム・リンカーン大統領は、これを契機として奴隷解放宣言(奴隷制度廃止法)を発表した。

 

なぜ今更「アンティータム」か。第一に、戦力的に圧倒的優勢である場合、勝利自体よりも勝ち方が問題であるという点は、2003年3〜4月の米軍イラク戦争に通じるものがあると思う。第二に、アメリカ国内における1日当たりの死者数が最も大きかったのがこの日である。アンティータムの激戦は、南軍に1万4千、北軍に1万2千の死者を出した。誰かが死ねば、その故郷に残された誰かが悲しむことになる。自国の内戦でそのような悲しみを経験しているにも関わらず、アメリカは外国における内戦を支援してきたケースが非常に多いし、自らも外国に戦争を仕掛けることが多い。

 

第三に、外国からの侵攻が侵攻される側にどのような心理状況をもたらすか、直接体験した機会であった。戦力的に圧倒的不利があったがために、南部連盟リー将軍は北部侵攻して直接敵の心臓部ワシントンを叩く戦略を立てたとされる。アンティータム直前には既にメリーランド州フレデリックを攻略していた。9月13日に北軍第12軍団の小隊の斥候がリー将軍のワシントン攻撃計画書(特別命令第191号)を入手していなければ、南軍は何ら障害物のない無人の道を辿り、ワシントン攻撃を容易に完了することができただろう。アンティータム随一の逸話として有名な「三本の葉巻」―――これがなければ、アメリカの歴史は大きく変わっていた。北軍政治家にとっては、ワシントン陥落が現実味を帯びている中で迎えたこの年9月であった筈だ。敵心臓部を一挙に叩く―――2001年9月11日の全米同時多発テロ事件に繋がる話である。

 

最後に、戦況を的確に把握することなく闇雲に攻撃を加えることの愚を大いに示す事例がアンティータムである。戦力的に不利のあった南軍の死傷者数はともかく、北軍の死者が1万2千にものぼった最大の理由は、戦況を把握する眼を持たない北軍司令官が、アンティータム戦の各局面にて、闇雲に攻撃を仕掛け、しかもその戦術にかたくなにこだわったためである。

 

毎年夏になると、アンティータムが新聞紙面を賑わす。南北戦争ファンによる戦争再現イベント(Reenactment)は、アンティータムから近いヘイガーズタウン郊外で毎年9月に開催される。ボクはたまたま2002年9月のイベントに出かけ、そして自分なりに何冊かの文献を読んで、アンティータムについて少し勉強してみた。その上で、2003年5月に、初めてアンティータム古戦場に出かけた。前置きが随分長くなってしまったが、本稿では、アンティータムの各局面を写真入りで紹介し、北軍司令官が犯した愚を中心に述べてみたい。

 

 

「トウモロコシ畑(The Cornfield)」:

ダンカー教会(Dunker Church)を巡る攻防

 

ダンカー教会(ダンカー派はアメリカにおけるドイツ・バプティスト同胞教会を指す)は、アンティータムの緒戦、1862年9月17日早朝6時から9時頃までにかけて行なわれた最初の攻防の中心地となった。北軍マクレラン将軍は、陽動作戦として、南軍左翼が陣取るこの教会周辺の小高い丘を狙い、先制攻撃を仕掛けるよう指示した。北軍ジョー・フッカー隊はダンカー教会からミラー農場のトウモロコシ畑を挟んで北方にあるノース・ウッドから攻撃を開始した。緒戦は一進一退の攻防となったが、フッカー隊が前線に持ち出した散弾砲がトウモロコシ畑に展開する南部兵をトウモロコシごと打ち倒すに至って北軍側の有利となり、フッカー隊は一時ダンカー教会を占拠した。しかし、南軍守備隊司令官ストーンウォール・ジャクソン率いるテキサス旅団が反撃して再び教会を奪回、その後1時間にわたって一進一退が続いたが、火力に勝る北軍側が徐々に優勢となっていった。

 

南軍の左翼がここで破られると、南軍本陣のリーまでは目と鼻の先である。南軍最初の危機であった。しかし、勝利を確信したジョー・フッカーが前線に現れた時、彼の乗った白馬は、南軍側の恰好の標的となった。フッカーは片足を撃ち抜かれて落馬し、戦線を離脱することになった。司令官を失いながらもフッカー隊は南軍左翼の前線を崩した。ここですかさず第二波攻撃を仕掛けていれば、南軍は大敗に至っただろう。しかし、決断力に欠ける(Overcautious)なマクレラン将軍は、トウモロコシ畑の東方イースト・ウッドに陣取るジョゼフ・マンスフィールド隊に攻撃命令を出すまでに必要以上の時間を要してしまう。マンスフィールド隊が攻撃命令を受けた時には、南軍左翼は辛うじて前線を建て直し、トウモロコシ畑はさらに熾烈な戦場となった。マンスフィールド将軍本人も致命傷を負い、北軍右翼は司令官2人を失ったことで大混乱に陥った。しかし、南軍側には反撃に転じるだけの戦力が既になかった。

 

《写真解説》 ノース・ウッド

北軍最右翼ジョゼフ・「ファイティング・ジョー」フッカー将軍の率いる部隊が最初の陣地を構えた地点から南方のミラー農場のトウモロコシ畑を臨む。アンティータムの戦いは、フッカー隊の攻撃を以って開始された。

 

 

 

 

 

 

 

《写真解説》 イースト・ウッド

北軍右翼ジョゼフ・マンスフィールド将軍がダンカー教会攻撃中に致命傷を受けた地点。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《写真解説》 ミラー農場のトウモロコシ畑

アンティータム戦中、最も死傷者が多かった地点。サイロからさらに向こうがノース・ウッドである。9月のトウモロコシ畑はトウモロコシが成長しており、背高いトウモロコシの間をぬって、南軍北軍の一進一退が繰り返された。

 

 

 

 

 

 

 

「窪んだ道(Sunken Road)」またの名を「血塗られた道(Bloody Lane)」

 

午前9時頃、イースト・ウッドで待機していたエドウィン・サムナー将軍率いる北軍第12軍団は、マクレラン本陣から攻撃命令がなかなか出ぬのに痺れを切らして出撃した。サムナー将軍は、リーの本陣がどこにあるかもわからぬ状態で、戦線の中央部、すなわちダンカー教会に向けて主力を投入したのである。密集隊形で進んだジョン・セドウィック分隊は、教会後方の森でストーンウォール・ジャクソンが指揮する予備軍の銃撃の餌食になり、わずか30分弱で2200名の兵士が死傷した。このような前線の大混乱を把握していなかった北軍、フレンチ、リチャードソンの二個師団は、ウエストウッドの南方に僅かに認めた敵兵目がけて突撃した。そこは他よりも少し落ち窪んだ小道で、バリケードの後ろでアラバマ第6大隊が北軍師団を待ち構えていた。

 

くしくもこの「サンケン・ロード」と呼ばれた小道は、南軍戦線中最も守備が手薄なポイントだった。おそらく北軍サムナー軍団は、それを知らずに突撃していたものと思われる。アラバマ兵の銃撃は激しく、「サンケン・ロード」を前に北軍兵の死体が積み重なっていったらしい。しかし、やがて手薄だったアラバマ兵に対して、サムナー隊のニューヨーク連隊が、「サンケン・ロード」の側面に回りこむことに成功した。アラバマ兵は徐々に倒れ、ここでサムナー隊後方のマクレラン本陣が予備兵を投入すれば、南軍リーの本陣は打ち破られ、両翼に展開する南軍は分断されただろう。リーはここが正念場とばかり、手元の兵力を総て「サンケン・ロード」防衛に投入している。しかし、マクレラン将軍はここでも予備兵投入をためらった。右翼のフッカー、マンスフィールド隊が破れ、サムナー隊も兵の過半を失った状況で、彼は、戦況が自軍に不利と考えたのだろう。サムナー隊後方に待機していたフランクリン隊、自陣の南隣りに待機していたポーター隊を、南軍中央部に投入せず守備につかせたのである。敵軍の左翼ないしは中央部にあと一撃を加えていれば北軍の完勝に終ったかもしれないこの局面で、マクレランは予備兵を守備に回し、北軍側左翼に待機していたアンブローズ・バーンサイド少将に出撃の指示を出した。主戦場を南に移ることによって、崩れかけていた南軍中央部は態勢立て直しの猶予を得たのである。

 

 

「バーンサイドの石橋(Burnside Bridge)」

 

バーンサイド将軍率いる北軍左翼は、アンティータム川を挟んで敵軍と対峙していた。この季節、アンティータム川の水深はそれほどなく、歩いてでも渡ることができたらしい。しかし、午後1時、攻撃命令を受けたバーンサイドは、渡渉を試みることなく、1本の石橋を攻略することに兵力を集中させた。石橋の対岸は崖になっており、崖の上ではトゥームズ准将が指揮するジョージアの二個連隊数百名が、バーンサイド隊の全兵力を食い止めていた。バーンサイドがこの石橋攻略に執着せず、別のポイントから渡渉を試みていたならば、この時間帯の南軍側には、この小川の流域に守備兵を配置する余裕を既に失っており、どこからでも南軍の前線を切り崩してリー将軍本陣を攻めることができた筈である。しかも、この橋攻略に2時間を費やした結果、彼は、南軍のアンブローズ・パウエル・ヒル(A・P・ヒル)少将が、ウェスト・バージニア州ハーパーズ・フェリーからリー本陣の援軍に駆けつけるのに十分な時間を与えてしまった。このため、いったんは橋を攻略してシャープスバーグ市街地目前まで迫ったバーンサイド隊も、A・P・ヒル隊の反撃に押し返され再び川を挟んで膠着状態に陥った。

 

《写真解説》 バーンサイド橋

南軍トゥームズ隊側から対岸の北軍バーンサイド隊側を臨む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《写真解説》 バーンサイド橋

北軍バーンサイド隊側からアンティータム川対岸を臨む。対岸は崖になっており、バーンサイド将軍がここで指揮をとると、全体の戦局を把握することは非常に困難であったに違いない。

 

 

 

 

 

 

 

しかし、この戦局でのより初歩的なミスは、A・P・ヒル隊がリーに合流する情報を、マクレランが偵察部隊を通じて得ていたにも関わらず、マクレランはこれをバーンサイドに伝達しなかったことである。もしバーンサイドがこの情報を事前に得ておれば、石橋攻略に執着してリーに援軍到着の時間を与えることもなかったであろうし、仮に石橋攻略にこだわったとしても、橋攻略後のシャープスバーグに向けた前進を緩慢な速度で行なうこともなく、A・P・ヒル隊迎撃に十分な備えをすることもできたであろう。

 

そして、午後5時30分、アメリカの歴史上最も血塗られた戦いは終ったのである。

 

 

結論

 

戦力の余裕を失った南軍は、9月18日夕刻、夜陰に紛れて後退し、ポトマック川を渡ってバージニア州側へ退却していった。リーの北部侵攻作戦はこうして失敗に終った。北部侵攻を食い止め、自軍以上に敵軍に損害を与えたという点では、この戦いは北軍の勝利と言うことができる。しかし、マクレランがリーを倒して南軍を殲滅する千載一遇の機会を逃したことで、南北戦争はこの後さらに2年近く続くことになる。ここでマクレランが南軍を粉砕していれば、その後の戦役でより多くの死傷者が出ることはなかっただろう。

 

アンティータムで犯した数々の判断ミスは、その後リンカーン大統領に大きく取り上げられ、彼はアンティータムを最後に総司令官の地位を追われることになる。その後、バーンサイド、フッカーの順でポトマック方面軍総司令官に任命されるが、いずれも能力的に前任者と大して変わるところがなく、1863年6月末、ゲティスバーグの戦いを目前に、ジョージ・ゴードン・ミード少将が昇格する。そして一方、東部戦線での南軍の勢力回復の中あまり大きく取り上げられていなかったが、西部戦線では、ユリシーズ・グラント将軍が徐々に戦果を上げ、南軍を追い詰めつつあった。

 

 

アンティータムの今

 

挿入した写真をご覧いただければわかる通り、現在、アンティータム古戦場は歴史公園として整備が進められ、主戦場が北から南に移ってゆく過程を、車で移動しながら追いかけてゆくことができるよう整備がされている。公園事務所では20分の映画が上映され、さらに北軍従軍画家による描画が数点展示されていて、各戦局を簡単に理解することが可能である。そして、公園事務所の裏庭はちょうど「血塗られた道」が目の前にあり、パーク・レンジャーの説明を聞くことができる。さらに、ここのギフト・ショップには解説本やビデオが豊富である。事務所入り口で入園料を払うと、公園のパンフレットを貰える。このパンフレットの解説に沿って、車で移動しよう。勿論、マウンテン・バイクで移動したり、バーンサイド橋近くでピクニックをすることも可能だ。

アンティータム国立古戦場のウェブサイトはこちらから

 

 

参考文献

 

エリック・ドゥルシュミート、「ヒンジ・ファクター〜幸運と愚行は歴史をどう変えたか」東京書籍、2002年5月

クレイグ・L・シモンズ、「南北戦争〜49の作戦図で読む詳細戦記」学研M文庫、2002年2月

アンナ・スプロウル、「伝記エイブラハム・リンカン」偕成社、1994年3月

Frederick Tilberg, “Antietam”, National Park Service, 1960

Jim Lehrer, “No Certain Rest”, Random House, 2002

James M. McPherson, “ANTIETAM: The Battle That Changed the Course of Civil War”, Oxford, 2002

Charles Flato, “The Golden Book of the CIVIL WAR”, Golden Press, 1960

James Campi, Jr., “Civil War Battlefields: Then and Now”, Thunder Bay Press, 2002

 

パンフレット

“1862 ANTIETAM CAMPAIGN: LEE INVADES MARYLAND”

“Antietam” National Park Service, U.S. Department of the Interior

 

(2003年5月10日)